1981年


『鏡の中のガラスの船』(講談社・講談社文庫)

 学生時代に書いた作品で、学生運動の嵐が吹き荒れる早稲田大学が舞台になっている。日比谷の野音でコンサートをやった時、ステージの上でぼくは突然思い出した。1970年の安保闘争のデモの時、高校生だったぼくは機動隊に追いかけられてこの野音のトイレに逃げ込んだのだ。MCでそのことを喋ると、けっこうウケたみたいだった。この小説は、一度ある出版社が本にしてくれるという話だったのだが、その出版社が経営危機に陥り仕方なく『群像』の新人賞に応募したら優秀作になった。ぼくは23歳だった。それから何本か小説を発表し、この年にようやく本になった。この本は初稿と雑誌発表時のものと、単行本と、ディテールが少しずつ違う。文庫本になる時に思い切って初稿、つまり最初に出来上がった時の状態に戻した。自分としては文庫本のヴァージョンが決定稿のつもりである。

『壜の中のメッセージ』(角川書店・角川文庫)

 ぼくの単行本デビュー作。今は幻冬舎の社長である見城徹氏が角川書店の若手編集者だった頃『野性時代』に連載してくれ、単行本にもしてくれた。この本が出来上がった時「君の小説はもっと味が濃くなるというか、嫉妬とか苦しみとか絶望とか、制度からこぼれ落ちていく人間の内面の深い部分を描けるようになるといいんだけど」と言われ、ぼくは「テーブルの上に紅茶のカップがあったとして、ロックはそのカップの光の当たった側しか見ないんだよ」と言い返した記憶がある。ぼくらは同じマンションの三階と四階に住んでいて、その頃角川書店の原稿は夜中に階段をのぼって渡しにいったものだ。朝の三時ぐらいにパジャマを着た彼がやってきて、「なんか食べるものないかな?」と言ったりするのはしょっちゅうで、ぼくも困ると金を借りにいったりした。あの頃は、とても活字にはできないような奇想天外な事件が次々に起こり、へとへとに疲れる夜もあったが、退屈だけはしなかった。二人でいっしょにマンションを出て、彼はスポーツクラブに、ぼくはバンドのリハーサルに出かける……そういう毎日だった。ぼくらは若かった。いつもジミー・クリフを聴いていた。きっと、あれは青春というものだったのだろうと思う。ところで、この本はDJをやっている主人公に自殺予告のメッセージが届くというストーリィだったものだから、それを真似して、似たような電話をかけてくる女の子が何人かいたのには困り果てたものだ。

『今日もロック・ステディ』(冬樹社・講談社文庫)

 この頃、ぼくは音楽雑誌にロック・ミュージックに関するエッセイというか、批評みたいなものを書いていて、それを一冊にまとめたものだ。ロックについての文章だが、ぼくの考え方のベースのようなものが示されており、今自分で読み返してみると参考になることが多い。1970年代をオン・タイムで経験してみたい人におすすめ。

『さよならの挨拶を』(中央公論社・集英社文庫)

 この小説は前編と後編に分かれており、前編を『群像』に、後編を当時中央公論社から出ていた『海』という文芸雑誌に発表した。原稿を書きすすめていき最後まできた時、主人公の少年がこの世界にお別れすることを決定づける最後の二行がどうしても書けず、ぶらりと外に出てパチンコを打ちにいった。パチンコを打っていると、涙がこぼれてきた。こんなことじゃいけないと自分を叱咤し、部屋に戻り最後のラインを書き記した。自分で言うのも何だが、パワーのある小説だ。だが、こんなものはもう二度と書けないだろうと思う。こんなものを書きつづけていたら、日常生活がメチャクチャになってしまう。ま、今だってメチャクチャなのかもしれないが、これ以上になると困る。読者の人達から、とりわけ男の読者の人達から、「主人公が最後に死ぬのはおかしい。彼はまだ生きているのだと思う」という内容の手紙をもらった。ぼくはそうした手紙のすべてを破り棄てた。だが、今では、彼らの意見のほうが正しかったのかなとも思う。この小説の主人公のイメージは『水晶の夜』へバトンタッチされた。


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